序幕|ペンキを塗ればいい、と言われた。
京都・東山。「京焼 真葛」と大書された白い暖簾をくぐると、宮川香齋の工房がある。
真葛焼の家は、割れた器を釉薬で継ぎ直す「焼き継ぎ」から始まり、やがて器を作る窯元となった。二〇二四年十月、宮川真一さんは七代宮川香齋を襲名した。
訪問したのは、日本橋三越本店での襲名記念展「真葛 七代 宮川香齋 茶陶展」を間近に控えた九月のことだった。展覧会の準備に追われるなか、宮川さんは私たちのために時間を惜しまず、ゆっくりと話を聞かせてくださった。
通された座敷の窓には、まだ夏の簾戸が入っていた。葦越しの光が、欅の座卓の木目に落ちる。宮川さんは穏やかな口調で、焼き物について語りはじめた。
——子どもの頃、工房は身近な場所でしたか。
「私は、あんまり仕事場には入ったらあかん、というふうに育ったんですよね。職人さんが仕事をしているところに、子どもが遊びに行くもんじゃない、と。
ただ、やっぱり子ども心に興味があるので、お昼の12時とか、午後3時から3時半の休憩時間には、ちょっと顔を出して、職人さんと喋ったりしていました。
だから自然に、うちは陶器を作っているんだな、こうやって陶器ができていくんだな、ということが分かっていったんです。」
——大学では陶芸を専攻されたそうですね。
「陶芸専攻には行ったんですけど、何でも土で作らなければならない、という感じが嫌で、ミクストメディアのようなことをしていたんです。陶器と食べ物のパンを組み合わせたり、縮むものと膨らむものを扱ったり。結構、好きなものを作っていましたね。
卒業制作では、土でパンのオブジェを作りました。そのとき使っていた土を、今でも使っていたりするんですよ。」


——在学中には、アメリカにも渡っていますよね?
「京都精華大学の3、4回生の頃に、交換留学でミシガン大学に1年間行っていたんです。」
「向こうで、窯で焼いた作品の釉薬がうまくいかなかったことがあって。そのとき教授に、『じゃあ、ペンキを塗ったらいいじゃないか。大事なのはあなたが何を表現するかであって、プロセスはどうでもいい』と言われたんです。
それがすごくショックで。でも、陶芸や工芸の世界では、そうじゃないんじゃないかと思ったんですよね。うちの仕事には、規則というか、いろいろな枠があります。でも、その枠の中でどうものを作っていくかということにも、魅力があるんじゃないかと。
アメリカに行ったことで、日本のことも、自分の家のことも、少し客観的に見ることができたんです。それで、やっぱりこの家を継いでいかなあかんな、と思うようになりました。」
二幕|十水五石。
——宮川家は、もともと焼き継ぎを生業とし、やがて器を作るようになったそうですね。その歩みを、今どのように捉えていらっしゃいますか。
「昔は陶器が高価なものだったので、割れても捨てなかったんですね。漆で継ぎ金箔を貼り付けてる金継ぎは大変高価なものでした。そこで、焼き継ぎという手法があったんです。割れた陶器の破片を釉薬でつなぎ、窯に入れて焼く。すると釉薬が熔けて、接着剤のような役割を果たすんです。

うちはその焼き継ぎで大きな商売をしていたんですが、江戸時代の半ばから後半になると、京都市内にも陶器を焼く窯が増えて、焼き継ぎの仕事が少なくなっていったんですね。それで、時代の変化に合わせて仕事を変えたわけです。
私は、そこがすごく大事だと思っているんです。昔ながらのものや、昔ながらのやり方を守っていくことも大切ですけれど、時代に合わせて仕事を変えていく、臨機応変に動いていくことも大事なんじゃないかと。
煎茶が盛んだった頃には煎茶道具をたくさん作りましたし、抹茶道具が求められる時代には抹茶道具をたくさん作ってきました。やっぱり、時代を見てものを作っていくことですね。今、どんなものが必要とされているのか、どういうものを皆さんに喜んでもらえるのか。常にそういうことを見ていくのが大事だと思います。」
宮川家の歴史は、江戸時代初期に近江から京都へ移り住んだ宮川小兵衛政一にさかのぼる。家はのちに治兵衛家と長兵衛家に分かれ、ともに「楽屋」の屋号で焼き継ぎを営んだ。
現在の香齋家は治兵衛家の流れを汲み、長兵衛家からは、江戸後期の京焼を代表する陶工・宮川長造が生まれている。長造は京都・東山の真葛ヶ原に窯を開き、仁清写しなどを手がけた。
宮川さんは、その作品の美しさについても触れた。
「同じような土や釉薬を使って作っても、仁清のものはもっと薄くて、ろくろ目がさーっと綺麗に立っているんです。まさにエレガントなんですよね。優雅です。」
——宮川長造が手がけた仁清写しの箱書きには、「写」ではなく「模」と書かれています。この一字の違いには、どのような意味があるのでしょうか。
「私は、『模』であろうが『写し』であろうが、一緒やと思っているんですよ。
仁清と寸分違わぬものを作ろうとしたのではなくて、長造は長造で、その時代に必要とされるものを作った。さっきの話ともつながりますけど、長造は江戸後期から幕末という時代を映す鏡だったんじゃないかと思います。」


宮川家には、代々受け継がれてきた「十水五石」という言葉がある。京都守護職を務めた会津藩主・松平容保から授かったと伝わる印に刻まれた言葉だ。
「十日をかけて水を描き、五日をかけて石を描く。大変な時間と手間をかけて仕事をする、という意味なんですね。」
その印を授かった幕末は、宮川家にとっても転機となる時代だった。明治に入ると、京都に残った家と横浜へ移った家は、それぞれ異なる道を歩み始める。
長造の子・虎之助、のちの初代宮川香山は、明治三年(一八七〇)に横浜へ移り、翌年、窯を開いた。開港以来、海外との交易が盛んになっていた横浜では、輸出向け陶磁器の生産が新たな可能性を広げていた。香山はやがて、精緻な装飾を施した陶磁器によって海外でも高い評価を得るようになる。
一方、京都に残った香齋家は、茶陶を中心に作陶を続けた。
「要するに、うちは幕府側やったんですね。私たちは京都に残って、向こうは横浜へ行った。そこで家が京都と横浜に分かれたんです。」
もっとも、二つの家の交流が途絶えたわけではなかった。
「例えば四代香山の娘さんの、雪子さんという人は、夏休みになると京都に遊びに来ていたそうなんです。ずっと交流はあったんですね。」
昭和二十年(一九四五)の横浜大空襲では、香山の窯も大きな被害を受けた。
「横浜の家が空襲に遭った後は、四代香齋であるうちのひいおじいさんたちが、土とか道具を持って支援に行った、という話もあります。」
京都と横浜。それぞれの土地で異なる焼き物を生み出してきた二つの家は、離れてからも交流を続けていた。
中幕|割れた破片が、手本になる。

横浜の香山が残した技術の一つに、二重透かしがある。七代目は、その技法の復元にも取り組んできた。

——失われた二重透かしの技法を復活させたそうですね。作り方が分からないなかで、どこに手がかりを見つけたのでしょうか。
「もともと二重透かし、英語でいうとダブルウォールですね、その技法は横浜の香山が得意としていたんです。うちにも作品が一点あるんですけど、どうやって作っているのか分からなかったんですよ。
ちょうどコロナ禍の少し前に、二重透かしの作品の修復依頼が来たんです。割れた破片を見て、ああ、こうやって作っているんだ、と分かった。
その後、コロナ禍で展覧会が全部なくなって、時間ができたので、じゃあ、この技法をもう一度やってみようと。そこから取り組み始めて、なんとか作れるようになりました。
自分の家にあるものは、割ってみるわけにはいかないですからね。」

——上が青磁、下が祥瑞。一つの茶碗に二つの技法を組み合わせた作品もありますね。
「大学時代に、真葛香山の作品を見てびっくりしたんですよ。下が祥瑞で、上が青磁になっている水指だったんです。
普通、そういう発想ってなかなか浮かばないんですよね。祥瑞だったら全部祥瑞で作るし、青磁だったら青磁で作る。それを一つの作品にしてしまう。
なんというか、『こんなことも俺にはできるんやで』っていうような、ちょっと得意げな感じがしたんです。それが面白くて、自分でもなんとか作ってみたいと思っていました。
その思いが二十五年間あり、私の代になり挑戦してみたんです。染付の焼成温度に青磁の釉薬を合わせなければならないので、なかなかうまくいかなくて。完成するまでに五年くらいかかりましたね。」

——先代までの仕事のなかで、これだけは変えないと決めていることはありますか。逆に、ご自身の代で変えたいと思っていることは。
「基本的に何も変えてないんですよ。作品作りに関しては、何も変えてない。
茶碗の寸法とか、お茶碗の形は変えていないですし、釉薬も変えていないです。もちろん、新しい釉薬を作ったりはしていますけど、それも本当に新しいことをしているわけではなくて、昔の人がやっていたことを、もう一回、今の時代にやっているだけの話なんです。」
——それは、新しいものを見せるより難しいのでは。
「本当に難しいです。
まず一回そこに立ってみてから、要するにそこからスタートしないと、アレンジはその後でできるんで。」
——百年後、宮川家の誰かが作品を見て「これは七代目だ」と分かるとしたら、どこでしょう。
「ワラ灰釉と釉下彩を組み合わせたというのは、私の代の仕事なんです。これは誰もやっていない。香山もしてへんし、もちろん長造もしてへん。だから、ぱっと見は地味な仕事だと思うんです。
上絵ではないですから。でも、単純に風景をそのまま切り取るのではなくて、自分の心を通すことで、もっと人の心に訴えかけるものになるんじゃないかなと思っています。
もう一つ、私がしていることは、ちょっと偉そうな、大げさな言い方なんですけど、ルネッサンスだと思うんですよ。
代々が昔からやっていた技術というのをもう一回見直して、洗い出して、今の時代に合わせてリファインする。だから、真葛焼のルネッサンス的なことをした人だったな、と子孫が思ってくれたら、あの世で喜ぶんじゃないですか。」


大詰|名を継いで、一人で窯を焚く。
——七代を襲名して、ご自身の中で何が変わりましたか。
「二〇二四年の十月十三日に代替わりをしたんですけど、なぜ十月十三日かと言いますと、その日はちょうど私の誕生日だったんです。また、日も良かったので、その日に変わったんです。
うちの家は代々、襲名のときはお坊さんを呼んで、法事をして、ご先祖に報告をするという形なんですけど、法事のときには当主になるので、一番最初にお焼香をする。そのときには本当に代を継ぐんだという実感というか、でも何かふわふわしたような気持ちがありました。
それで、襲名披露の茶会を東京でしたんです。父もおじいさんも襲名披露のお茶会をしているんですけど、二人とも大阪でしていたんですね。地元の京都じゃなくて。
それはやっぱり、京都にはお茶のお家元とか、代々のお家があるんで、我々のような者が襲名披露という大それたことをするのに、ちょっと遠慮があったんです。
私は東京とのご縁が深いので、東京で襲名披露のお茶会と、それからちょっとしたパーティーをさせてもらいました。襲名披露のお茶会には二百名ぐらい、パーティーには七十名ぐらいお越しくださったんですけど、そういうところで皆さんにお祝いを言っていただいたり、襲名披露のお茶に合わせて道具を作ったり、お道具をしつらえたりすることによって、だんだん実感が湧いてきた。」
——店先の暖簾も、襲名で新しくなったそうですね。
「うちの家は、襲名すると、暖簾と印、それから小間の茶室の畳を替えるんですね。
父の場合は、暖簾も印も、大徳寺の管長、高田明浦老師から頂戴しているんです。私も印は高田明浦老師から頂戴したんですけど、暖簾に関しては、八坂神社の野村宮司から頂戴したんです。
なぜ野村宮司に暖簾の字を書いていただいたかと言いますと、先ほど申しましたように、真葛ヶ原というのは八坂神社の東側でしょう。そこは神域、神様の場所なんです。そこで窯を築いたということがあって、野村宮司に字を書いていただいたんです。
それから、私は宮本組というのに入っているんです。お宮さんのそばにいて、お宮さんのお手伝いをしている組なんですけど、そこに入らせていただいていて。だから七月の祇園祭のときなんかは、めちゃくちゃ忙しいんですけど、そういうご縁もあって、暖簾の字を書いていただきました。
一方、私の印の字は高田明浦老師に書いていただいたんです。ただ、父のときに書いていただいた字を持っていって、『これとは違う字で書いてください』とお願いして、新しい字を書いていただきました。」

工房の奥に、窯がある。扉を開け放つと、白い耐火煉瓦が見えた。
——襲名されてから、窯を焚くうえで変わったことや、難しさを感じることはありますか。
「まず、経験ですね。襲名前までは父と私の二人で窯を焚いてましたけど、襲名してからは私が一人で焚いているんです。困ったときは父に聞こうと思いますけど、やっぱり難しいですね。
父と比べると、私はまだまだ経験が浅いので、失敗したこともたくさんありますし。私はどうしても怖がりなんで、少し早めに窯を切っちゃったりするんですよね。
そのあたり、もう一歩踏み込んで、そこまで温度を上げちゃおうとか、そういうのはもうちょっと経験が必要かなと思いますね。」

——一子相伝ということは、先代からは言葉で教わるものでしょうか。それとも、手と体で覚えるものでしょうか。
「一つ技術的なことを言いますと、うちの家が一番大事にしているのは、ワラ灰釉という釉薬なんですね。
その釉薬は長造から使っているもので、ずっと受け継いでいる釉薬です。私も大事にしていますし、おじいちゃんも、その前もずっと大事にしてきた釉薬で。減ってきても足すときに、ワラ灰も自然のものなので、一回テストして……今までのものに足す、というような感じでやっていますね。
あとは、毎日お茶を飲む。抹茶なり煎茶なり、お茶を飲むということも大事にしています。お茶を飲むなかで、いろいろ気づくことがあるんです。例えば、このお茶碗は今まで気づかなかったけど、こんなふうな作り方をしているとか、このお茶碗をお茶会で使うんだったら、こういう掛け物を掛けたらいいとか。逆に、その掛け物だったら、こういうお茶道具も作れるわね、とか。
そういうインスピレーションを起こすために毎日お茶を飲む。おじいちゃんもひいおじいちゃんも、父も私もしていることですね。
また、父は『品のいいものを作らなければならない』と。品のいいもの、上品なもの。そこはさっき言ったエレガントというところにも通ずるのかな、と思いますよね。ただ、品のいいものって、口で言うても、なかなかすぐには難しいんですけど。」
作業台に腰かけた七代目が、まだ焼く前の白い器を手に取った。口縁には、編み目のような縁取りがある。

その形のもとになったのは、桂籠(かつらかご)。千利休が桂川の漁師の魚籠(びく)を花入に見立てたと伝わるものだ。
「利休さんが桂川の漁師から魚籠をもらって、それを花入れにしてるんですよ。桂川の魚籠を見立て、その形からヒントを、今度それを水指にしようかと。
これにワラ灰釉をかけて、釉下彩なりで水の模様を描いてると、すごく涼やかな水指ができるんちゃうかなと思って。
魚籠は竹でできてるじゃないですか。だから蓋のつまみを竹節にしようかなと思って。これからですね。」
茶室も見せてもらった。「尚古軒」「龍吟」と名づけられたこれら茶室は、昭和三十九年(一九六四)、宮川家が現在の場所に移った際に設けられたものだ。工房で作られた茶道具が、実際の茶席で使われる場所でもある。


——この先十年で、一番やってみたいことは。
「やっぱりこう、真葛焼をもっと多くの方々に知っていただきたい。で、特にこの家に来ていただいて、お家の茶室でお茶を飲んでいただきたいな、と思うんです。」
取材の終わり、座卓に菓子と茶が出された。輪花の白い皿に、紫の花と、橙の菊をかたどった生菓子。

——初めて真葛焼を手に取る人に、何を見てほしいですか。
「まずはお茶を飲んでもらいたいですね。絵や形を見るのは、その後でいいんです。
作法とか、そんなことは気にせずに。
まず、お茶を飲んでください。」
