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唐津焼 陶芸家 十四代中里太郎右衛門 撮影:VOYAGE JAPAN

( 人 · Hito )

考えが、
そこに現れる。

十四代中里太郎右衛門 陶芸家 / 佐賀・唐津

2026.10

序幕|火をくぐり、時を重ねる。

唐津には、安土・桃山時代から続く窯がある。十四代中里太郎右衛門は、祖父がよみがえらせ、父が磨き上げた「叩き」の技を受け継ぎ、今も唐津の土と釉薬に向き合い続けている。

訪ねた日、ギャラリーでは祖父の手による茶碗で抹茶をいただいた。話は土から窯へ、窯から井戸茶碗へと移っていく。技法を受け継ぎながら、なお研究を重ねる中里太郎右衛門。その言葉をたどるうちに、ものをつくることへの考え方が、少しずつ見えてきた。

唐津は、佐賀県北部、玄界灘に面した港町である。その名は、かつて唐へ渡る港であったことに由来するといわれている。朝の呼子では、水揚げされたばかりのイカや魚を、地元の人たちが買い求める。港から船に乗れば、玄武岩の断崖に洞窟が連なる七ツ釜が姿を現す。

海沿いには松林が続き、丘の上には唐津城が建つ。町には唐津くんちの曳山を収めた展示場もある。そして、通りを歩けば、今も焼き物をつくり続ける窯元やギャラリーに出会う。

そのなかに、唐津焼の歴史とともに歩んできた中里太郎右衛門の窯元がある。敷地内には、記念館や古い窯、現在も使われている窯、ギャラリーが並ぶ。瓦屋根の下に続く白い漆喰壁は、雨風にさらされ、ところどころ黒ずんでいる。白と黒が入り交じるその表情に、朝鮮唐津の釉薬を思い起こさせる。

門をくぐると露地が続き、池には錦鯉が泳いでいる。庭の一角には、十一代中里天佑が手がけた陶製の達磨が、雨風にさらされたまま置かれていた。雨ざらしのままで大丈夫なのだろうか。そう尋ねると、先生は笑った。自分と達磨と、どちらが長持ちするか、もう分からないのだという。

中里太郎右衛門窯撮影:VOYAGE JAPAN
中里太郎右衛門窯撮影:VOYAGE JAPAN
中里太郎右衛門窯撮影:VOYAGE JAPAN

少し前に、京焼の清水六兵衛さんを取材していた。代々続く京焼の家に生まれながら、唐津の土に強く惹かれたという話を聞いたばかりだった。

唐津焼が大きく発展したのは、十六世紀末から十七世紀初めにかけてのことだった。豊臣秀吉による朝鮮出兵を機に、朝鮮半島から渡ってきた陶工たちが、この地の焼き物づくりに新たな技術をもたらした。一方、茶の湯は武将たちの間にも広まり、茶の席で使う器への関心が高まっていた。唐津の茶碗も茶人たちに愛され、やがて「一楽、二萩、三唐津」と称されるようになる。

朝鮮半島から伝わった技術は、この地にすでに根づいていた焼き物づくりと結びついた。唐津焼は急速に発展し、ほどなく西日本の広い地域へ器を送り出す一大産地となった。

唐津の焼き物は、その土地の材料と切り離せない。近くの山から原料を採り、陶石を砕いて水にさらし、練り上げて土にする。原料の採取から土づくり、成形、施釉、焼成に至るまで、一人の作り手が自ら手をかける仕事は、決して効率のよいものではない。それでも、素材の性質を自分の手で確かめながら、すべての工程に関わることでしか得られないものがある。

——唐津焼の魅力は、どこにあるのでしょうか。

「唐津がいいというのは、やっぱりこう、使うとどんどん変化するんですよね。」

「唐津焼は飾るためというより、使うための焼き物なんです。鉄分の多い土を使いますから、絵付けや釉薬ですべてを覆うのではなく、土の肌をそのまま残す『土見せ』というところもある。茶碗だったら高台の削りも、見どころの一つですね。

ぐい呑や徳利にはお酒を入れるし、茶碗ならお茶を点てるでしょう。そうやって使っているうちに、釉薬の細かな貫入に色が入り、器の肌も少しずつ変わってくる。同じ器でも使う人によって変わり方が違うんです。唐津では昔から、そういう使い込んだ器の味わいを大切にしてきたんですよ。」

——絵唐津や朝鮮唐津など、唐津焼にはさまざまな種類がありますね。

「絵唐津というのは、鉄分を含む顔料で草花などを描いて、その上から透明な釉薬を掛けるんです。あの自由な筆遣いや素朴な味わいが、昔から茶人たちに好まれてきたんですね。絵を描かずに灰釉や長石釉を掛ける無地唐津もありますし、藁灰を使った白い釉薬に斑(まだら)が現れる斑唐津もあります。

朝鮮唐津は黒と白の釉薬を掛け分けるんですが、窯の中で溶け合うと、その境目に青や紫、黄色など、いろいろな色が現れるんです。ほかにも青唐津、黄唐津、黒唐津などがあります。」

朝鮮唐津の耳付水指撮影:VOYAGE JAPAN

——釉薬の研究は、今も続けているのですか。

「釉薬も粘土も常に研究しています。技術もいろいろ変えています。」

技術を受け継ぐことと、それを変えていくことは、必ずしも相反するものではない。中里家では、代々の陶工たちが先代の仕事を引き継ぎながら、それぞれの時代に新たな技法や表現を模索してきた。

二幕|三百年の窯と、二日間の火。

——中里家の焼き物づくりは、いつ、どこから始まったのでしょう。

「うちの窯は、慶長年間に始まったんです。ところが明治になると、世の中ががらりと変わってしまった。それをもう一度よみがえらせたのが、私の祖父にあたる十二代なんです。」

中里家の窯は430年の歴史を持ち、江戸時代には代々唐津藩の御用窯を務めてきた。

その歴史の中で、古唐津の再興に大きな役割を果たしたのが、十二代中里太郎右衛門、のちの無庵である。古い窯跡を調査し、出土した陶片を手がかりに、失われていた技法の研究と復興に取り組んだ。なかでも『叩き』の技法をよみがえらせた功績は大きく、1976年には重要無形文化財「唐津焼」の保持者(人間国宝)に認定された。

その長男である十三代中里太郎右衛門、のちの逢庵は、父から受け継いだ技法を発展させながら、独自の作風を築いた。制作と並行して唐津焼の研究にも取り組み、2004年には博士(学術)の学位を取得。2007年には日本藝術院会員となった。

2002年に十四代を襲名した中里さんも、代々受け継がれてきた唐津焼の伝統を大切にしながら、自らの表現を追求している。

十四代中里太郎右衛門作撮影:VOYAGE JAPAN

現在、中里太郎右衛門窯では、伝統的な割竹式登り窯と連房式登り窯を使い分けている。敷地内には約三百年前に築かれた窯も残されている。

中里太郎右衛門窯に残る古い登り窯撮影:VOYAGE JAPAN

——いちばん使う窯は、ご自身で設計されたのですか。

「これはね、ある程度こういう窯を作りたいという考えがあって、窯師に相談しながら作ってもらったんです。もう十五年くらい前になりますね。それまでは祖父の十二代が使っていた窯を焚いていたんですが、非常にこう、焚いていると温度がパッと上がったり、すぐ下がったりするんです。

そういう急激な温度差は、焼き物にはあまり良くないんですね。楽焼は別ですよ。楽は窯から出して急冷するものですから。それ以外の焼き物では、あまり良くないんです。

窯を焚くのは一年に八回くらいでしょうか。一回の焼成にだいたい二日かかりますから、工房の者たちと交代しながら火の番をしています。」

十四代中里太郎右衛門撮影:VOYAGE JAPAN

三幕|三代の棚と、一服の茶。

ギャラリーの硝子棚には、十三代、十四代の作品が並び、それぞれに作者の名が添えられていた。その器を見比べると、同じ唐津の土を扱いながらも、それぞれが異なる表現を追い求めてきたことがうかがえる。入口の壁には、上皇ご夫妻が窯を訪れた際の大きな写真が掛けられていた。

ギャラリーでは、無庵の茶碗で点てた抹茶が和菓子とともに振る舞われた。祖父の手になる器は、展示品として眺めるだけのものではなく、今も茶を点て、人をもてなすために使われている。

向かいに座った十四代中里太郎右衛門は、時折笑みを浮かべながら、窯の歴史や祖父と父の仕事について語った。飾り気のないその話しぶりは、唐津の器が持つ素朴さとも、どこか通じるものがあった。

1957年に生まれた中里さんにとって、焼き物は幼いころから身近な存在だった。四歳ごろには粘土で動物をつくり、職人たちが働く工房を遊び場のようにして育ったという。

父の勧めで美術大学に進み、彫刻を学んだ。その後、釉薬についても学び、二十八歳ごろに唐津へ戻って本格的に作陶を始めた。翌年には青唐津の壺が日展に入選。1990年には日展で特選、佐賀県展で知事賞を受賞するなど、次第にその仕事が評価されるようになった。

中里太郎右衛門窯のギャラリー撮影:VOYAGE JAPAN

ギャラリーには、伝統的な唐津焼とは趣の異なる三彩の小壺もあった。
三彩は、中国・唐代に栄え、日本では奈良時代に伝わった、緑や褐色、白などの釉薬が織りなす焼き物である。その色彩は、土の素朴な表情を大切にする唐津焼とは、また違った美しさを持っている。

中里さんがこの技法に深く関わることになった背景には、玄界灘に浮かぶ沖ノ島がある。九州の海岸からおよそ六十キロ。古くから航海の安全を祈る祭祀が営まれ、島には大陸との交流を物語る数多くの宝物が残されてきた。現在は世界遺産の一部となり、一般の人が自由に立ち入ることはできない。

その沖ノ島から出土した国宝「奈良三彩小壺」を再現してほしいという依頼が、宗像大社から中里さんのもとに届いた。千年以上も前につくられた小さな器。その色合いや質感を現代によみがえらせるため、中里さんは土や釉薬の研究を重ね、調合を変えては焼成を繰り返した。

思い描いた色が出るとは限らず、窯から取り出した器を確かめては、また次の試みに向かう。そうして完成した小壺は、宗像大社へ奉納された。

三彩の小壺 |十四代中里太郎右衛門作撮影:VOYAGE JAPAN

古代の器を再現するために重ねた試みは、その後の制作にもつながっている。取材当時、工房には近く個展に出品するという三彩の壺が置かれていた。

十四代中里太郎右衛門作撮影:VOYAGE JAPAN

中里さんの探究は、従来の唐津焼にはなかった技法にも及んでいる。その一つが、器の表面を削って文様を表す『掻落し』だ。

「掻落しは、今まで唐津にはなかった技法なんです。私は中国の磁州窯の手法が好きでね。原料自体も磁州窯と唐津は似ていますし、それで始めたんですよ。」

若いころから中国の古窯を訪ね歩いてきた中里さんは、磁州窯の掻落しに強く惹かれた。中国で育まれた技法を唐津の土で試み、以来、自らの表現を探り続けている。その仕事の一つである、白地に黒の文様を浮かび上がらせた「唐津白地黒掻落し壺」(1999年)は、大英博物館に収蔵されている。

中幕|意識しない美しさ。

ギャラリーを出ると、隣接する工房へ案内された。一つの建物の中に、中里さんと職人たちそれぞれの仕事場があり、茶碗をつくるための部屋は別に設けられている。

茶の湯において、茶碗は数ある道具の中でも特別な存在である。名を与えられ、桐箱に納められ、ときには幾世代にもわたって大切に受け継がれる。欠けたり割れたりした器も、漆で繕われ、金継ぎの跡さえ、その茶碗が重ねてきた時間の一部となる。

中里太郎右衛門窯の工房撮影:VOYAGE JAPAN
中里太郎右衛門窯茶碗制作専用の工房撮影:VOYAGE JAPAN

工房の見学を終え、母屋へと向かった。玄関を上がると、中央アジアの器や鉢が目に入る。奥には茶室があり、年に何度か家族が集まって茶を楽しむという。

中里家の茶室撮影:VOYAGE JAPAN

——中里さんも、茶道をなさるのですか。

「いや、私はほとんどしてない。」

若いころに習ったことはあるが、今は茶道具をつくる際、自分の感覚を頼りにしているという。

茶碗づくりの話になると、中里さんは、古い井戸茶碗と現代の茶碗との違いについて語った。

井戸茶碗は、もともと日本の茶の湯のためにつくられたものではない。朝鮮半島で日常の器として焼かれたものの中から、日本の茶人たちが茶碗としての美しさを見いだし、珍重するようになった。

「昔の人は、そういうことを意識せずに作っているんですね。それが自然であるし。あとの現代の人は、それを意識して作るから、どうしてもその意識が見えてくるんですよ。」

茶碗の寸法や形を知り、それに合わせてつくろうとするほど、かえってその枠から離れられなくなるのだという。

「お茶を知っているって、それは大事なことだと私は思うけども、逆に、それを知っているがゆえに、そこから出られないんですよ。その寸法とか形から、出られないんですよ。」

かつては大小さまざまな器が焼かれ、その中から茶にふさわしいものが選ばれた。中里さんは、大井戸茶碗を例に挙げる。

「一番下が鉢みたいな、上がぐい呑みくらいのサイズ。ちょうど真ん中くらいの、ちょうどいい大きさのものを、日本の武将が持ってきて、茶碗にした。」

やがて茶人の注文に応じて、初めから茶碗として器がつくられるようになった。しかし、そうした茶碗には、昔のものほどの力が感じられないと中里さんは言う。

「魅力が少ないんですよ。どうしてもそうなるんです。」

では、あのような茶碗は、どうすれば生まれるのだろうか。

「難しいというか、これは慣れですね。……何万個作ったうちの、一つです。」

大詰|秘密は、なんもない。

——ご自身の作品の中で、特に思い入れのあるものはありますか。

「襲名する前に作った茶碗が、今でも一番いい。」

その茶碗は、御茶盌窯記念館に収められている。

唐津奥高麗茶盌|十四代中里太郎右衛門作

御茶盌窯記念館は、約百五十年前に建てられ、三代にわたって中里家が暮らした家を建て替えたものだ。庭の設計も中里さん自身が手がけ、かつての家の柱は新しい建物の梁として生かされている。

館内には、中里家の代々の作品に加え、唐津の歴史や文化を伝えるさまざまな品々が並ぶ。器だけでなく、唐津という土地の空気ごと感じられる場所になっている。

御茶盌窯記念館撮影:VOYAGE JAPAN
御茶盌窯記念館撮影:VOYAGE JAPAN
十四代中里太郎右衛門撮影:VOYAGE JAPAN

展示品の中に、陶製の羊が一体あった。中里さんの父、十三代中里太郎右衛門(逢庵)が1952年に制作した試作品である。本作となる陶彫「羊」は第8回日本美術展に入選し、1958年に旧ソ連の文化省によって買い上げられた。

海を渡ったその羊が、今どこにあるのかは分からない。記念館には、制作の過程で生まれたもう一体の羊が残されている。

十三代 逢庵が1952年に試作した陶の羊撮影:VOYAGE JAPAN

中里さんもまた、祖父や父と同じように、古い技法をたどりながら、土と釉薬の研究を続けている。工房では伝統的な唐津焼に加え、西洋の装飾を思わせる優美な器も生み出されている。受け継いだものを守りながら、その表現を広げていくことも、中里さんの仕事の一部なのだろう。

こうして代々受け継がれてきた中里家の窯だが、次の世代については、まだ何も決まっていないという。中里さんの長男は、父と同じ武蔵野美術大学を経て、東京藝術大学で陶芸を学んだ。

「したいこと、たくさんあるみたいで。」

——代々受け継がれてきた、門外不出の技法などはあるのでしょうか。

「ないない、全然ない。

うちは全然そんなことやらないですね。どんどん教えますよ。……教えても、まずうまくいかないから。」

「自分で経験して、勉強していかないとダメですね。秘密はなんもない。」

十四代中里太郎右衛門撮影:VOYAGE JAPAN
インタビュアー和田タチアナと快く取材に応じて下さった中里太郎右衛門先生撮影:VOYAGE JAPAN
The Question あなたにとって、
舞台とは。

窯の前の二日間と、使う人の手の中。

Profile

十四代 中里太郎右衛門(なかざと・たろうえもん)

1957年、佐賀県唐津市生まれ。本名・忠寛。武蔵野美術大学で彫刻を学び、同大学大学院を修了。釉薬の研究を経て、1983年より中里太郎右衛門陶房で作陶を始める。1984年、日展初入選。1990年、第22回日展で特選、第40回佐賀県展で県知事賞・永竹威賞を受賞。2002年、十四代中里太郎右衛門を襲名。2007年、日本工芸会正会員となる。2011年、紺綬褒章を受章。

伝統的な唐津焼の技法を受け継ぎながら、磁州窯の掻き落としや奈良三彩の研究にも取り組む。2020年には御茶盌窯記念館を開館し、唐津焼と地域文化の発信にも力を注いでいる。

取材後記

ギャラリーでは、十二代中里太郎右衛門(無庵)の茶碗で抹茶をいただいた。美術館なら硝子越しに眺めるような器が、ここでは今も茶を点てるために使われている。御茶碗窯記念館には、十三代(逢庵)が手がけた陶彫「羊」の試作品が残されていた。完成作はかつてソ連へ渡り、今はその所在が分からないという。代々の作品を大切に残しながら、新しい技法を試し、惜しみなく人に教える。中里さんの話を聞いていると、受け継ぐことと、新しいものを生み出すことが、ごく自然につながっているように思えた。

「教えても、まずうまくいかないから」

その言葉が、最後まで印象に残った。

唐津にて 唐津焼 陶芸家 十四代中里太郎右衛門 撮影:VOYAGE JAPAN