序幕|二つの年譜
窯のある一帯は、古くから「小松谷」と呼ばれてきた。松谷窯の名は、そこから来ている。開窯から百年あまり。京焼の名窯のなかでも、京料理の粋を支える器を「現代でもつくることができる」と言われる、数少ない窯のひとつである。
その工房の壁に、二枚の年譜が並んでいる。一枚は「道夫」、もう一枚は「松谷」。同じ一人の人間が歩いてきた、二本の道だ。
京都市立芸術大学で教えていた時に、定年になった時に作ったんです。道夫と松谷が、同じ人物やということで
松谷は、家の名である。二〇〇〇年、父の没後に三代松谷を襲名した。道夫は本名であり、日展に出すときの名だ。松谷の仕事は磁器。ロクロで丸く挽き、細密な絵が入る。道夫の仕事は陶器で、丸いものは作らない。そのために一九九〇年、京都府南山城村に登窯を築いている。同じ手が、まったく違う二つのものを生み続けている。

二幕|十八歳まで、土に触れなかった
意外なことに、十代の頃はほとんど土に触れていない。やりたかったのは考古学だった。

転機は高校二年の冬、祖父の枕元に呼ばれたときである。初代松谷、叶謙一。淡路島から京都へ出て五代清水六兵衛に師事し、この窯を開いた人だ。
考古学の中に焼きもんもあるで
それが遺言になった。ああ、やっぱり焼きもんをやらんといかんのかな——そう思い、美術の道へ進む。
嫌だったけど、考古学をやりたくても焼き物やらなあかんという宿命みたいなのが自分の中にありましたね
ところが大学に入っても、誰も教えてはくれなかった。君は陶器屋の息子やし、焼き物のことは全部わかっているだろう、と。何も分からないまま、古い焼き物の本を一心に読んだ。考古学が好きだったから、それだけはできた。技術的に分からないことは、家に帰って父に聞いた。
その父・二代松谷(哲夫)は、八木一夫らとともに走泥社の結成に加わった一人である。前衛陶芸の最前線にいた男が、やがて前衛的な制作を離れ、家の伝統的な仕事に戻った。作品が売れなければ、飯は食えない。
だから息子が家の仕事と日展の両方をやっても、父は何も言わなかった。

中幕|伝承と伝統は、違う
家業がはじめて面白くなったのは、あることに気づいてからだ。
京焼を勉強してみると、名前を残している陶工達は、古いことばかりをやっているわけではなく、新しいその人たちなりの創作を加えていることがわかる。ただ写すだけの「伝承」ではなく、時代と共に変化してきたことが「伝統」としてつながっていく
その考え方は、松谷窯の作品名にそのまま刻まれている。祥瑞意、嘉靖意、古清水意——器の名につく「意」の一字である。単なる写しではなく、本来の作品が持つオリジナリティのあり方を自分なりに深く観察し、理解し、自分の身体を通してもう一度表現する。つまり、現代を生きる松谷の理解による表現だという意味だ。

融合を確かなものにするために選んだのは、地道な反復だった。仕事を終えたあと、工房とは別の場所で練習を重ねる日々が続いたという。
自分の考えたものを作るためには、最低限の技術が必要。さらに、自分の作りたいものを作るためには、新しい技術の開発も必要です。それらは、基礎を積み重ねつづけて、できるもんやと思います
上手くなる方法を訊ねると、答えは一言だった。「数ですね」
日展では、在学中から出品を続け、特選二回、会員賞と受賞が重なった。本人は「たまたま良かったし、いただけた」と言う。それでも壁は、だいたい五年ごとに来る。
越え方は決まっている。スケッチに行く。ただし、昼間には行かない。
今ここにあるものを見る場合に、みんなが同じときに見ると同じようにしか見えないし、同じようにしか書けない。他の人と違う角度で見ようと思えば、朝早くとか夜遅くとか時間をずらす
夏の朝、三時か四時。松林はまだ暗く、何も見えない。やがて松の形が浮かび、色が戻ってくる。日が上がりきると、松の緑の向こうに海のグリーン、その上にブルーの空が重なる。
でもそれは、僕しかわからない。他の人は誰も見てない
浜辺では、引いていく波を見る。小さな石がころころと転がり、砂に細かく微妙な線を描き出す。誰にも踏まれていない場所の、今この瞬間だけの線だ。
そういう線を使って作品できないかとか
赤もまた、日常のなかから生まれた。日展で人の足を止める、あの赤である。
家にザクロの木があってね。実がだんだん大きくなってきて、すごく赤くなる。そういうふうなイメージで
十代の夢は、かたちを変えて残っている。今も資料を集めており、一番好きなのは古墳壁画の四神獣だという。
その絵を、水指にした。青龍・白虎・朱雀・玄武を四面に配し、蓋は四角。棚に置くとき、南を向いていれば朱雀を正面に、東なら龍、西なら白虎を——どの場面でも使えて、そして必ず話題になる。

器が話題を生む、という発想は日々の食器にも及ぶ。絵柄の模様が隣の器へとつながっていくセットは、その一例だ。
日本人ってパーティーとか苦手で、話のきっかけをなかなかつかめないでしょ。そんな時、隣の人が持っている器と自分の器と模様がつながるのを見つけたとしたら、「おたくとこんな風につながりますよね」なんて話しかけて、話が弾むきっかけになるのではないかと考えたんです
松の絵を、筆一本で描く。ためらいは、そのまま線に出る。
線一本引く時、考えながら書いてると線が震えます。頭の中にイメージして、ここからここまで描くんやと最初にイメージして、シュッと行く。無になる。そうすると、筆に勢いが出てくる
襲名したとき、ひとつ決めたことがあった。日本橋から京都まで、茶碗で歩く。東海道五十三次を、年に二つか三つ。宿場は五十三、起点の日本橋と終点の京都を加えて五十五になる。二十年をかけて、五十五碗が揃った。二〇二〇年、野村美術館で完成記念展が開かれている。
やっとできたな
疲れは、全然なかったという。
割烹食器に向かうときには、別の物差しがある。盛りつけやすい、運びやすい、洗いやすい、しまいやすい、割れにくい、飽きがこない、そして美しい——その順序だ。

現代の食器棚に合わないサイズで作ってしまえば、器は使えるものではなくなる。使うための食器である限り、美しさはあくまで最後に来る。ところがそうすることで、逆に美しさに磨きがかかることがあるのだという。
これからの器について、見ている方向はひとつだ。洋のなかへ、和が積極的に入っていくこと。
今までのような「洋を取り入れた和」ではなく、「和を取り入れた洋」として、和を発散する立場に持っていく。同じようなことかもしれませんが、考え方が違うだけで、かなり印象が違ってくる
大詰|減った幅は、今生きている自分が作る
窯を継ぐ息子・具夫さんには、何も言わないと決めている。
自分はこっち行こうと思ってるのに「お前はそっち行かんとこっち行け」と親父が言ったとしますね。そうすると親父は満足かもしれないけれど、自分は嫌でしょう。やしそうならないように、僕は何も言いません
かつて父が、自分に何も言わなかったように。
先代から繋がってきたこの幅を、そのままずっと繋がるわけがない。同じことやってるとだんだん尻すぼみになってくる。この減った部分をどうして補うか。それは、今生きてる自分が作る。それが次に伝統として繋がっていく
若い作り手へは、三つの字を残した。
観・感・作(かん・かん・さ)。観察の観。自然をよく観察する、美しいものをよく観察する。そうしたら、そこから何か自分が感じるものがあるでしょう。見て、感じて、そして創る
そして、こう続けた。
それは、人から教えてもらったらダメ。人から教わったらその人のものしかできない

