序幕|二百五十年の坂
形見とて何か残さん春は花夏ほととぎす秋はもみぢ葉——良寛は、自分が残すものとして、季節そのものを挙げた。何も残さない、という歌である。
京都の人にとって、五条坂と、隣り合う茶わん坂は、焼き物の坂である。清水寺へと続くこの道の両側に、いくつもの窯元と店が並ぶ。清水焼の名は、すぐそばの寺と同じ音を持つ。
清水焼の起こりは室町中期にさかのぼるとされ、江戸初期、野々村仁清の登場とともにその名は高まった。青木木米、仁阿弥道八、永樂保全、そして清水六兵衞——のちの時代、京の焼き物の幅を広げた名は数多い。だが、今日まで続いている窯はわずかである。
そのひとつが、六兵衞窯だ。初代が五条坂に窯を開き、清水六兵衞を名乗ったのは一七七一年。当代で八代を数える。
歴代の歩みには、その時代の一流の画家たちの名前が並ぶ。円山応挙、松村呉春、田能村竹田、神坂雪佳、幸野楳嶺、竹内栖鳳。歴代は彼らに絵を学び、ともに作品をつくってきた。
八代六兵衞との対面は、五条坂の工房で行われた。瓦屋根の木造家屋、白壁に浮かぶ時代の陰翳、苔むした庭石。そんなものを思い浮かべていたのだが、実際のアトリエは、各階に仕事の気配が張りつめた、現代的な建物だった。

轆轤の前には、次代を担う長男の姿もあった。文科系の学部を出て、五年ほど銀行に勤めたのち、自分の意思で焼き物の道に入ったという。近ごろは辰砂釉を用いた仕事に取り組んでいる。清水宏章にとって、それは体をめぐる血の色である。同時に、見る者を静かにさせる不思議な力をもつ色でもある。数ある釉薬のなかでも最も難しいとされる辰砂に、あえて挑む。動と静を、ひとつの器のなかに宿らせるために。

関連展示「清水宏章 朱」長男・宏章の展示撮影:VOYAGE JAPAN
もっとも心を動かされたのは、家に併設された展示室だった。木の梁があらわれた切妻の部屋に、初代から当代までの代表作が、ひとつの空間に集められている。この場所を公開する予定はないという。ここに並ぶ作品を目にする機会は、展覧会を待つほかない。

二幕|建築家になりたかった
——いつ、土を好きになったのですか。
返ってきたのは意外な答えだった。本当は建築家になりたかった、というのである。
住まいは工房から歩いて五分ほど。近いが、そこは遊び場ではなかった。焼き物の家に生まれた子どもが、幼い頃から自然と土に馴染んでいく——そういう育ち方ではなかったのだ。
初代から六代ぐらいまで作った作品が並んでいた展示室が自宅にあって。そこでそういう焼き物と触れる。それがあと、日常に使う器とかね
七、八歳の頃には、壺のようなものや動物を粘土でこしらえていた。それが最初の作陶体験だったとは、本人も気づいていなかった。
記憶に鮮やかに残っているのは、母に連れられて工房へ行き、窯が開くのを見た日のことだ。十歳の頃である。
その時はまだ京都でも窯がたけた、煙の出る窯があったので、その印象はすごく残っていますね
十五歳のとき、京都で煙の出る窯は焚けなくなった。以後は電気窯になる。彼が見たのは、登り窯の火の、最後の時代だった。
——家から、継げという圧力はなかったのですか。
陶家に生まれながら、家からの圧力を感じたことはなかったという。周りはあまり「継がないといけない」とか、それを強制されることもなかったので。自由にいろんなことをやれたと思います
だから彼は東京へ出て、早稲田大学理工学部建築学科に進んだ。反対されもしなかった。
三幕|紙が、土に変わった
卒業して京都に戻り、自分で作れる仕事のほうが向いているかもしれない、と考えた。家が焼き物の家だったから、陶芸をやってみようと思った。
すぐ近くに、轆轤を教える学校があった。京都府立の陶工高等職業訓練校である。そこで一年、轆轤を学び、京都市工業試験場で釉薬を学んだ。
——なぜ、お父様のもとで学ばなかったのですか。
今は割とそういう学校へ行くことが多いです。その方が効率的に技術を身につけられる。ほとんど、跡を継いだ人たちはそういうところに行って勉強します
息子たちも同じ道を通った、と付け加えた。
もっとも、東京での四年間が無駄になったわけではない。むしろ逆である。
東京の学校に行って建築をやっていなかったら、今作っているものは違うと思う
建築の学生は、住宅の模型をつくる。紙やスチレンボードを、図面に沿って切り、組み立てる。計算が要る。図面が要る。
その素材が紙から土に変わったと。そうしたら何かできるんじゃないか、というところがスタートです

図面を描き、型紙を起こし、土の板を切り出して組み立てる。八代六兵衞の仕事の原理は、この一行に尽きている。
とはいえ、始まりは轆轤だった。円筒形のもの、筆立て、器、コーヒーカップ。だが轆轤の時代は三年ほどで終わる。
なんか轆轤って、円筒形のものしか。それ以外のものを作りたいなと思って
たたらは、板状にのばした土を折り曲げ、組み合わせて成形する古い技法である。中国にも日本にもあり、陶箱や板皿をつくるのに使われてきた。轆轤や手びねりと違い、四角い器や箱をかたちにできる。土の板は手でつくるため、表面にわずかな歪みが残る。それが、この技法の味わいでもある。
日本の前衛は、まず絵画に起こった。やがて前衛いけばな——勅使河原蒼風の草月、中山文甫の未生流——の影響を受けて、陶芸家にも広がっていく。彼らは、若い作り手の居場所がない階層構造と、実用性を第一の基準とする既存の展覧会から離れていった。
これを立体造形へと転じたきっかけを、当代は八木一夫の名で語った。走泥社、そしてその前年に生まれた四耕会。
ちょうど私が生まれた時に、八木一夫さんが『ザムザ氏の散歩』を発表したんですよね。その頃、私が生まれた頃にも、用途を持たない陶芸の作品が生まれていた。そういう作品が、私がやりだした頃は身近にありました
彼が生まれた一九五四年、用途を捨てた焼き物はもう珍しいものではなかった。六年前の一九四八年には林康夫の《雲》があり、この年には鈴木治が立方体の《作品》を、八木一夫が《ザムザ氏の散歩》を発表している。前衛は、生まれたときからすでに身のまわりの空気だった。
公募展に出したい、と思った。轆轤ではこれくらいの大きさにしかならない。組み合わせてつくれないか——そこからたたらが始まった。

四幕|焼けば、へたる
一九八三年、朝日陶芸展でグランプリ。二十九歳だった。
まさか賞がつくと思ってなかったので、喜びました。喜びと驚きと、逆にこの先どうなるのかという不安みたいなものがありましたね
受賞は光を当てる。そして、その光の形に自分を寄せていくことになる。全く違うものを出す道もあったはずだ、と本人は振り返る。だが世間はもう、あの作品をイメージしている。
その受賞作は、単純なフレーム状の作品だった。一部が痩せていて、焼くとそこにカーブが生まれ、背中が柔らかくなる。

——わざとですか。計算ですか。
自然となるわけです。それまでいろいろ作っていて、焼くと形がぐちゃっと変形してしまう。これを初めはきっちり作りたいと思っていたのですが、土というのは千二百度を超えると柔らかくなるという性質があるわけですよ。だったらそれを形の中に使えないかなということで
歪みを、直すのではなく、使う。
その方法は徹底している。庭に置かれた作品を例に、彼は説明した。土の板に一センチ幅の切り込みを入れる。切り込みが深いところは強度が落ち、焼成中に余計にへたる。中央だけ深く、両端に行くほど浅く。焼く前は真っ直ぐな板が、窯から出ると、計算どおりに開いている。
そういう焼くというプロセスを見越して形を作っていくので
高さ一メートルほどのその作品は、八つのパーツからなる。現在は茨城県陶芸美術館の収蔵品である。

作風は、止まってはいない。
いつまでも同じことやってるわけにいかないし
行き詰まって作れなくなったことはない、と彼は言う。ただ、どう展開していくかで悩んだことはある。そして悩みの解き方は、いつも同じだった。
とにかく作るしかないって思ってたんですよ。やっぱり、いくら頭の中で考えてても、この世界は展開していかない。やっぱり手を動かして、いろいろやってる中で、という感じでした
近年の仕事では、へたりは背後に退き、代わりに構造が前へ出てきている。中心に角柱——本人の言葉では「シャフト」、心棒——を置き、その周りをかたちが取り巻く。神道の三方、供物をのせるあの台のイメージから、二つの形を接ぐ構成に展開した作品もある。

赤みを帯びた作品について尋ねると、柿釉に近い色だという答えが返ってきた。内側にわずかに焦げたような表情があるのは、吹きつけた釉薬の飛沫が入り込んだためである。土は、九谷焼で使われる石川・小松のものと、京都で手に入る白土を混ぜる。近ごろは美濃や有田の磁土も使い、多くは半磁器だ。硬質感と透明感に惹かれた、という。
——いま、見せたいものは。
中の空間みたいなものを見せたいです
——その発想は、どこから来たのですか。
やっぱり考えてみると、建築かなって、建物かなって気がするんですけどね
作品の多くは、幾何学的で、金属のようにも見える。焼き物だと聞いて驚く人は多い。では、これは使えるのか。器なのか。
器として使えるものもあります。こういうものの中には、器としてイメージしたものもあるし、完全に造形として作っているものとあるんですけれど、その境目は非常に曖昧
だから、造形としてオブジェで作ったものも、人がこれなんか花を生けてみたいなと思えば、それはそれでいいだろうなと思います
彼が望んでいるのは、美術館の中だけに存在するものではない。かつて床の間に飾られ、花器として使われた焼き物のように、部屋に絵が掛かっているように、日常の空間の中にあってほしい——そう語った。

たたらで、茶碗もつくる。歴代が茶碗をつくってきたからだ。
日本の陶芸にとって、茶碗と一つ大きなアイテムなんですよね。茶碗に自分の表現を盛り込むというのは、ちょっと興味あるところですね
——これから挑みたいことは。
こういう造形的なものばかりは割としっかりやってきたので、器にもうちょっと展開できないかなと。スタートから逆なんですけれど、器でスタートしたのにこっちに行ってしまった。もう一回こっち側にアプローチできる方法
大詰|父の背中
この家の物語を語るうえで、七代を欠かすことはできない。
七代六兵衞——彫刻家・清水九兵衞。名古屋の生まれで、名古屋高等工業学校で建築を学び、沖縄戦から生還したのち、東京藝術大学で金工を修めた。六代の娘と結婚し、一九五一年に養嗣子となって陶芸の道に入る。日展で特選を重ね、陶芸家としての評価は高まっていった。
だが「もの」と、それを取り巻く空間への関心が勝った。一九六六年に初めて彫刻を発表し、六八年には九兵衞を名乗って、焼き物から離れる。素材は主にアルミニウム。「Affinity(親和)」の連作で知られる、日本の抽象彫刻の第一人者となった。
一九八〇年、養父である六代が急逝する。東京で開かれた歴代展の初日、挨拶の最中に倒れたのだった。九兵衞は七代六兵衞を襲名する。ただし、ふたたび陶に向かうのは、離れてから約二十年後のことである。

彫刻に転じて以降、七代の陶は点数がきわめて少ない。だからこそ貴重であり、同時に、仕事と美意識の面からも見るべきものが多い。とりわけ興味深いのは、陶とアルミを組み合わせた作品だろう。土の性質と、窯の中で起きる変化を、彼は素材として扱った。焼成による歪みを意図的に用いるという発想において、七代と八代は確かにつながっている。
二〇〇〇年、名を長男に譲り、七代は彫刻へ戻った。
同じ工房で、親子は仕事をしていた。ただし部屋は別々だった。父は、あまり見に来なかったという。
聞いたら、いろいろ言ってくれるけど、あんまり見に来て、あーのこーの、っていうことはなかったですね
いま、当代も同じことをしている。
向こうがいろいろ聞いてきたら、どう思うって聞いてきたら意見は言います
——あなたにとって、陶芸とは。
「難しいかな」と、少し間があった。
やっぱり自分の表現する媒体というか、手段ですよね。……ものを介して、アートというのは、見る人とのコミュニケーションだと思うんですよね。そういうことがやっぱり大事なのかなと思ってますね

——これから陶芸の道を歩もうとしている人たちへ。
陶芸というのは、素材がやっぱり土だったり、限られているわけなので。そこで何か表現できるものを追求している世界だと思うんですね
やっぱりいろんなものに興味を持って、そういう状況の中では持つことが大事だと思うんですよ。作品だけじゃなくて、絵画とか、あるいは音楽とかね。そういうものに興味を持って接することで、それが自分の作陶にフィードバックしてくるようなことが、より大事だろうな
旅に出るのが好きだという。仕事から少し離れることで、新しいきっかけが得られるから。自然に触れ、他の分野の美術を見る。刺激は、いつも焼き物の外側から来る。
二百五十年前、五条坂に火が入った。以来、代ごとに、誰かがその火のかたちを変えてきた。八代の手にあるのは、図面と、定規と、切り出された土の板である。そして窯の中で、その板は少しだけ、思いどおりに歪む。
