序幕|0点から始めるという話
京都・山科。清水焼団地の一角に林康夫の家がある。日本画家を志した少年が、十五歳で海軍に志願し、戦後、父の窯で土に触れた。
以来七十五年、用途を持たない立体を作り続けている。
インタビューを開始すると、林さんはすぐに菓子の皿を差し出した。「どうぞゆっくりゆっくり食べてください」、暖房が強すぎるか弱すぎるかを何度も聞いてくれて、それから二時間、話は途切れなかった。
——オブジェという概念は、どこから生まれてきたのでしょうか。
「考え方の根本は、ああいうただの便器を、『泉』というタイトルに変えてしまう作品ね。既製品をそのまま置くのではなく、その形を自分で作って出す。そこから始まった。」
林さんは、1917年にマルセル・デュシャンが男性用便器を《泉》と題して提示した作品を引き合いに出しながら、オブジェという表現について語り始めた。
「だから、その『泉』は『泉』でも鉢ではなく便器を選んだ。選んだ『物』の概念が大事なのだ。」
話はやがて、日本の陶芸へと移る。志野焼や織部焼には、何百年ものあいだ受け継がれてきた歴史があり、その名には長い年月をかけて築かれた評価と信頼が伴っている。
いわば、伝統という暖簾がある。しかし、その暖簾を外したとき、作家自身の表現として何が残るのか。
林さんが土によって生み出した形には、まだその暖簾がなかった。既存の焼き物の名にも、確立された美の基準にも頼ることのできない、新しい表現だった。
それは、0点からの出発だった。
0点は、無価値という意味ではない。伝統の暖簾から借りた点が、ひとつもないということだ。そこからどれだけの評価が生まれるのかを決めるのは、作品そのものの力であり、それを受け止める人々の眼差しだった。
二幕|十六の夏に、空間が変わった
一九二八年、京都生まれ。父は京焼の陶工だった。それでも、子どもの頃は父が何をしているのかを知らなかったという。
「伏見の小学校に入ってから、ようやく父の仕事が陶工だと分かった。一度だけ、五条の窯に連れて行かれた記憶がある。
もう、ものすごいところでね。登り窯のある場所だった。
それでも、やきものの道に進む気はなかった。私は、やきものの勉強なんか全然してなかった。日本画の絵描きになりたかったから、日本画のことは一生懸命、戦争に行くまで勉強してたんですよ。」
一九四〇年、林さんは京都市美術工芸学校の絵画科に入学し、日本画を学び始める。在学中は日本画の実習で金賞、銀賞、銅賞、佳作と、さまざまな評価を受け、早くから絵画の分野でその才能を示していた。しかし、二年生の十二月に太平洋戦争が始まると、学校生活にも戦争の影響が及び、軍事教練が増える一方で、英語の授業は次第に減っていった。
一九四三年、予科練の受験年齢が一歳引き下げられ、十五歳から志願できるようになった。搭乗員の大量育成を急ぐ海軍が、全国の中学生から大規模な募集をかけた年である。林は迷わず受験を決めた。同年十月一日、第十三期甲種飛行予科練習生として、開隊したばかりの美保海軍航空隊に入隊する。十五歳だった。
「上から言われることは全部正しい、と教えられて育った。小学校の国語の教科書の一ページ目は、咲いた咲いた桜が咲いた。二ページ目は、進め進め兵隊進め。国の言う通り、はい、はい。」
乗れる飛行機は、もう無かった。
「特攻で行くから、帰ってこないから。」
実用機は、もう回ってこなかった。与えられたのは、木と布でできた橙色の複葉機、九三式中間練習機――「赤とんぼ」である。本来は操縦の基礎を学ぶための機体で、武器を搭載するようには造られていない。250kgの爆薬を溶接して取り付け特攻にゆく、厳しい2機編隊の夜間飛行訓練が続いた。
実戦部隊の緊張の日々を経て、出撃命令は出ないまま、終戦を迎えた。
中幕|意識の底から、形が生まれた
京都に戻り、父の陶業が再開されると、家業を手伝った。跡を継ぐものだと思っていた。ところが、父の考えは違った。
「そしたら、親父がね、いや、そんなことせんでええから、お前、自分の仕事考えろと……で、それはもう、お前の好きなようにやれって。」
やきもののなかにも、いくつもの道がある。そのどれを選んでもいい、という意味だった。
視界が開けた、と林さんは言う。一九四七年十一月十七日、宇野三吾の家に十人が集まり、四耕会が生まれた。会の名を考えたのは伊豆蔵寿郎だった。
「会員各自が自分の四方を耕す」。林さんによれば、それが「四耕会」という名に込められた意味である。当時十九歳だった林さんは、会員のなかでも年少の一人だった。
戦後、既存の美術団体とは異なる立場で活動するグループが各地に生まれていた。四耕会もまた、そうした時代のなかで活動を始めた。
「もっと自由に。我々は自由だ。」
——それは、大変な道ではなかったですか。
「ああ、もう、これはもう、大変なことなんですよ。」
戦後間もない日本では、美術のさまざまな分野で、それまでの価値観を問い直し、新しい表現を求める動きが生まれていた。長い歴史のなかで培われた技法や美意識、器としての用途と深く結びついていた陶芸も、そうした変化と無縁ではなかったが、四耕会が一九四七年に結成されたとき、会員たちの間に、後に「前衛陶芸」と呼ばれる表現を生み出そうという明確な構想があったわけではない。
彼らがまず求めたのは、官展を中心とする既存の評価制度に依存せず、「在野」の立場で制作することだった。何をつくるべきかという答えが最初から用意されていたのではなく、伝統的な焼き物の形式や既成の評価から離れ、それぞれが自分の表現を探ることに意味があった。その自由のなかで、林さんは土という素材に、これまでとは異なる造形の可能性を見いだしていく。
「土は無機質だから、いかようにもできるわけですよ。」
先祖の写しをするなら、こうしなければいけない形がある。そうでないなら、何も決まりはない。
「こうしたい、ああしたい。」
何をつくってもいい。そうした自由のなかで、林さんが最初に形にしようとしたのは、人体だった。
「特攻から帰ってきて、生き延びて帰ってきて、じゃあ、何するかって言うたら、やっぱり、あの、今まで人間の命を、この紙くずのように軽く軽く扱われてきたことを、もう、考え直さないかん。」
——人体を作ったのは、戦争への思いを込めてのことだったのでしょうか。
「もっとその人間そのものについて、あの、戦争とかなんとかいうことなしに、人間の素晴らしさっていうものをね、見つめ直した方がいいんちゃうかという考えです。」
——それは言葉にはしなかったのですか
「いや、言葉ではないです。」
「形で。」
ただ、人の姿を写しとったのではない。形は、別の道からやって来た。
「オートマチズムというてね、それを抽象絵画の人に教わったんですけどね。」
紙の上で、何を描くともなく鉛筆を動かす。絵画の手法である。林さんはそれを、土でやった。
「何かを書こうという具体的なものはないわけです。
楕円がね、見えてきたんですよ。
楕円を重ね、丸をつないでいく。
抽象的な丸をこう、ずっとこう、つないでいって、わっかにして、それでやってみたら、お、面白くなったから、で、もう、雲にしようと。」
頭にあったのは、空の雲だった。
「一番最初は、まあ、原爆のこともあったけど、あの、飛行機乗ってた時に、もう雲がこういっぱいあったしね。」
原爆の雲にすることもできた。林さんは迷ったという。
「私は、なんか、政治性に使いたい、という気はしなかったんで、あの、純粋にこう、形として、雲として。
人体が雲になった。」
こうして生まれたのが、《雲》である。
器ではない。花を挿すためでも、茶を飲むためでもない。焼き物でありながら、用途を持たない、ただの形である。作ったのは二十歳、京都の陶家の息子で、まだ誰も名を知らない若者だった。この一点が、日本で最初の陶のオブジェと呼ばれるまでには、七十年以上かかる。それが語られるのは、ずっと先のことだ。

一九五〇年、パリのチェルヌスキー美術館で現代日本陶芸展が開かれることになった。林さんは二点を応募し、選ばれたのは《無題》だった。

ところが形が複雑すぎて荷造りできないという理由で、パリへ渡ったのは、もう一点の《人体》である。

七十一点が海を渡った。そのなかで、林さんの作品だけが「Figure」と分類されている。器ではなく、人の形として。陶のオブジェが海外で展示された、最初の一点である。
四幕|闇夜がかたちになるまで
四耕会での活動を経て、林さんはその後も、土による人体の表現を追い続ける。器としての用途から離れた造形の探求は、素材や技法を変えながら、少しずつ新たな姿を見せていく。
一九六〇年ごろから、林さんの作品には赤土の色が現れ始める。赤土を焼き締め、ときに伊羅保釉を施したその肌には、土そのものが持つざらつきや温かみが残り、滑らかに整えられた表面とは異なる、素朴で力強い表情が生まれている。形の輪郭だけでなく、土肌の質感や焼成によって生まれる色合いもまた、作品の印象を大きく左右するようになる。

人体の抽象は、その後も林さんの制作のなかに息づいていた。ただし、そこに現れるのは、もはや人間の全身を思わせる姿ではない。腕が曲がるときの線、腰をひねったときに生まれる膨らみ、身体の一部分に宿るわずかな動きが、独立した形として取り出されていく。《ホットケーキ》《FACE》《PIERROT》。
どこか親しみを感じさせる題名とは裏腹に、目の前にあるのは、何かに似ているようで、何ものとも言い切れない抽象の塊である。

その表面に一本のくぼんだ線が走るだけで、両側の面はふくらみを増し、静止した土の塊に、身体の動きにも似た緊張が生まれる。見る角度によって、あるときは人の身振りを思わせ、またあるときは、ただ不思議な形としてそこにある。
やがて、そうした造形のなかには、身体の動きだけでは捉えきれない、人の内面を思わせるものが現れ始める。おかしみや戸惑い、そして空虚さまでもが、顔の表情を直接描くことなく、土の膨らみやくぼみを通して感じられるようになっていく。
器のかたちから離れ、人体の輪郭さえもほどいていく林さんの造形は、海の向こうでも人々の目を捉えた。一九七二年、イタリアのファエンツァ国際陶芸展でグランプリを受賞すると、翌年にはカナダのカルガリー国際陶芸展でも同じ栄誉に輝く。さらに一九七四年、フランスのヴァロリス国際陶芸展ではグランプリ・ド・ヌールを受賞した。

イタリアからカナダ、そしてフランスへ。三年にわたって異なる土地で評価されたのは、伝統的な焼き物の形式にも、見慣れた人体の姿にも収まらない、林さん独自の造形だった。


そうして生まれた形を、林さんはいつまでも繰り返そうとはしなかった。一九八〇年ごろ、その表現にひとつの区切りをつけ、今度はまったく異なる造形に目を向ける。
「これ以上は自分のコピーになるなと思ってね、マンネリにならないうちにやめようと思って、それでやめた。そして、今度は立方体を最初から作り直そうと思ってね。」
次に林さんが向き合ったのは、立方体だった。それまで人体の曲線や膨らみを追い続けてきた手が、今度は直線で囲まれた、ごく単純な幾何学の形へと向かう。しかし、林さんが求めたのは、ただ立方体を土で作ることではなかった。
紙の上に立方体を描くとき、見える辺は実線で、隠れた辺は点線で示す。平面に引かれた線だけで、そこには奥行きが生まれ、目に見えない部分まで想像することができる。
「それをそのまま目の前で見せるようにするには、どういう風にしたらできるかということから始まるんですよね。」
黒化粧を施した土の表面に白い線を引くと、そこには実際には存在しない奥行きが浮かび上がる。線が手前にせり出して見えたり、奥に沈んでいるはずの空間が前へ現れたりする。土そのものが占める空間と、線が描き出す虚構の空間。その二つが重なり合い、見る者の目を惑わせる。
ただし、その錯覚が生まれるのは、決まった位置から眺めたときだけだった。正面から、ふさわしい距離で。裏側へ回れば、その幻は消えてしまう。作品の空間は、舞台に似ている。舞台裏から芝居を見ても、舞台の上に生まれる世界は見えないのと同じである。
林さんは、こうした空間の反転を、かつて飛行機から見た夜の光景に重ねて語る。
「マイナスの空間が、プラスの空間に変わる。
夜は明かりだけなんです、テンテンとね。
テンテンとした明かりと前へ飛んで行く飛行機との重なるんです。並ぶんです。
高度が低いと、地上の明かりと機影が平行に並ぶ。それが、ずっと続く。
そこでどっちがどっちか分からなくなる。
本来はこっちやのに、こっちが本当に見えてくるんです。
一点を見つめてはいけない。端から端まで視界に入れておかなければならない。」

一九八四年、林さんは再びイタリアのファエンツァに招かれる。十二年前にグランプリを受賞したこの地で、今度は「ファエンツァ・マエストロ展」の招待作家として作品を発表した。さらに一九八七年には、ポルトガルで初めて開催されたオビドス・ビエンナーレでグランプリを受賞する。人体の曲線から幾何学的な造形へと探求を重ねてきた林さんの作品は、ヨーロッパの地でも評価を受け続けていた。

林さんが土と線によって追い求めてきた空間の不思議は、やがて陶芸とは異なる分野の人々の関心も引くようになる。一九九八年八月、ベルリンで開かれた国際数学者会議に合わせて企画された「数学とセラミックス」展に、林さんの作品が出品された。数学者たちが数字や理論によって捉える遠近や空間を、林さんは土という素材を通して、目の前に現れる形として追求してきた。その作品を前にした一人の数学者の言葉が、林さんの記憶に残っている。
「数学者は数字で、遠近を正確に証明できる。
でも焼き物で遠近感をここまできちっと出すとは見たことがないですよ。
だからもう2、3日眠れんかったという、その言葉も嬉しかったね。」

土で生み出された空間の錯覚が数学者たちを驚かせた一方で、林さんの作品は、まったく異なる場所でも人々の目に触れることになる。二〇〇一年、フランスのニースとカンヌで上演されたオペラの舞台である。一九九〇年から九六年にかけて制作された七点の作品が、作品の写真がスクリーンに大きく投影され、物語の展開に合わせて舞台の風景を形づくった。
その話が林さんのもとに届いたのは、ある訪問者を通してだった。何のために訪ねてきたのか、初めは見当もつかなかったという。
「最初は能の話なんかしててね、私はこの人何しに来たんかなと思ったの。」
やがて、その訪問者が林さんの作品の写真をオペラの舞台美術に使いたいと考えていることがわかった。選ばれたのは七点。フランスまでの航空券が二人分届けられ、林さんも現地へ向かった。終演後にはカンヌの舞台に招かれ、花束を受け取った。

二〇〇五年ごろ、林さんの造形に、家を思わせる形が現れ始める。《寓舎》。人がこの世を生きるあいだの、仮の宿という意味が込められた作品である。林さんが混沌とした時代として見つめる現代。その不確かさを映すかのように、作品の表面には赤や黄の色面が重なり、白い直線がそのあいだを横切っている。
色の濃淡や線の交わりから奥行きが生まれ、ときには人の横顔にも似た輪郭が、ふと浮かび上がる。そこに誰かがいるようでもあり、いないようでもある。家という親しみのある形を持ちながら、その内部に広がる空間は容易には捉えられない。正面から見えていたものが、側面へ回ると別の姿を見せ、裏側にはまた異なる空間が潜んでいる。ひとつの作品のなかに、いくつもの見え方が折り重なっている。

家という形への関心は、やがて現実の風景と結びついていく。二〇一一年の東日本大震災のあと、林さんは福島県浪江町に残された廃屋を目にし、その光景に強い衝撃を受けた。
「余りの惨状に暫し呆然、言葉を忘れました。
荒凉とした原野、小高い台地に廃屋が風雪に耐えて一軒、除草剤の白い粉で化粧をしたかの様に強く美しく立っていました。
この強烈な印象に胸の詰まる思いがして、さて、私に何が出来るかを考えました。」
その光景から生まれたのが、《浪江町の景》のシリーズである。タタラで成形した陶板を組み合わせ、家の壁を思わせる面には、傷跡のような凹凸が刻まれている。それまでの黒化粧に代わって表面を覆うのは白。かつて人が暮らしていた家々の姿が、土の肌に残る荒々しい痕跡とともに表されている。
人がこの世に身を寄せる仮の宿としての《寓舎》から、人々が去ったあとの家を見つめる《浪江町の景》へ。林さんが長く向き合ってきた家という形は、ここで、現実の出来事と切り離すことのできないものになった。


闇夜に見た光の列は、長い時間をかけて、土のかたちになった。
大詰|二十一世紀の焼き物は何だったか
後の世から見たとき、いまの焼き物はどう見えるのだろう。志野があり、織部がある。それぞれの時代には、その時代を映す焼き物があった。では、二十一世紀の日本には、何が残るのか。
「じゃあ、21世紀の日本は、どんな焼き物があったんやと
その時に、その焼き物は、何を表現してたかと」
未来の人々からそう問われたとき、答えられるものを作ること。
「それがやっぱり、今の焼き物を作る人間の責任やと思うんです。」
けれども、作品が時代のなかでどのように受け止められ、後の世へ伝えられていくかは、作り手だけでは決まらない。それを見て、評価し、言葉にする人々もまた、焼き物の歴史に関わっている。
一九四八年、林さんが《雲》を制作したとき、その造形を受け止めるための尺度は、まだ十分に育っていなかった。器でもなく、従来の彫刻とも異なる。土で作られたその形を、何と呼び、どのように論じればよいのか。
「この作品の構成を、ちゃんと解説できる美術評論家は、あんまりいなかった、日本には」
林さんが疑問を抱いてきたのは、焼き物を見る目そのものだった。
「骨董的価値観があるような作品は、いい作品や、ってわけです。それしか見えんかったら、現代はどないなんのかね。これはもう、すごい、日本の場合は、遅れてるということ。」
古くから受け継がれてきた器には、その時代の技術と美意識が宿っている。しかし、過去の焼き物を評価する物差しだけでは、いま生まれつつある表現を捉えることは難しい。林さんが求めていたのは、焼き物が器としての価値を離れても、彫刻や絵画と同じように、ひとつの芸術として見られることだった。
戦後の京都では、そうした表現をめぐる動きが少しずつ広がっていた。四耕会は前衛いけばなの作家たちと協働し、走泥社の作家たちも独自の造形を追求していた。パリで日本の前衛陶芸が紹介されると、「オブジェ」という言葉も次第に知られるようになる。
そして一九五四年、八木一夫の《ザムザ氏の散歩》が発表された。この作品は長く、戦後日本の陶のオブジェを語るうえで、その出発点として位置づけられてきた。
その六年前に作られた《雲》は、そこに含まれていなかった。
林さんは人体から幾何学的な造形へ、さらに《寓舎》や《浪江町の景》へと表現を変えながら、《雲》が陶芸史のなかで語られる日を待っていた。
「戦後の陶芸は走泥社から始まった。どの教科書にも同じことが書いてある」と、林さんは言う。
その走泥社の展覧会が、京都国立近代美術館で開催されることになっていた。冒頭には四耕会の作家たちの作品も並ぶと聞いていた。
「歴史はここから始まったということを書き直すわけ。
だから、その展覧会が始まってから、私が復活できるんですね。今、今まだ復活できへん。
私、いや、一生棒に振らされたんやけども。」
取材も終わりに近づいたころ、林さんは作品集を開き、一九四八年の《雲》のページで手を止めた。
百年ほど経てば、世の中も変わるだろう。そうすれば、この作品も見直されるのではないか。林さんはそう語った。
「もっと早いと思います」と取材者が答える。
「そうやのか」

【編集部注】百年は、かからなかった。
京都国立近代美術館で「走泥社再考 前衛陶芸が生まれた時代」展が開催された。走泥社の歩みを振り返る展覧会でありながら、会場には同時代に活動した四耕会の作家たちの作品も並び、そのなかに林康夫の《雲》があった。
展覧会は岐阜、岡山を経て、東京の菊池寛実記念 智美術館へと巡回した。東京展の会期に合わせ、担当学芸員は、八木一夫の《ザムザ氏の散歩》に先立つ一九四八年の《雲》を、日本で最初に制作された陶のオブジェとして紹介した。
二〇二四年九月から十一月にかけて、栃木県の益子陶芸美術館では「スポットライト:林康夫 -浪江に捧ぐ-」が開催された。九十六歳の林さんが出品したのは、《浪江町の景》である。
この展示を訪れた美術史家・藤原貞朗は、著書『近代日本陶芸史 ゲテモノからニセモノ、そして現代アートへ』のあとがきで、林さんについてこう記している。
「林康夫は、八木一夫に先んじて一九四八(昭和二十三)年に日本最初のオブジェ陶《雲》を発表した前衛作家として近代陶芸史に名を刻む。」
長く一九五四年を起点として語られてきた日本の陶のオブジェ。その歴史の始まりには、すでに林康夫の作品があった。
七十年以上を経て、ようやく、その歴史の起点が六年さかのぼった。
