舞台
JP

井上萬二先生 撮影:和田タチアナ

( 人 · Hito )

形が、
いくらでも生まれる。

井上萬二 白磁・重要無形文化財保持者(人間国宝) / 佐賀・有田

2021.03

有田。四百年、白い土を焼き続けてきた町に、その人の窯はある。井上萬二、九十二歳。朝八時から夕五時まで白磁の前に座り、夕飯のあとは一時間歩く。昼寝はせず、日曜も休まない。九十を越えてなお、去年と同じ形は作らないと決めて、毎年、銀座の同じ画廊に新しい白磁を並べ続けている。技を持つだけの職人ではなく、形を生み出す陶芸家でありたい——その一点を、生涯かけて追ってきた人だった。

序幕|月曜と、月曜と。

はじめに驚かされたのは、日課だった。九十を越えて、朝から夕まで制作にあて、そのあと一時間を歩く。昼寝はいらない。日曜も、先生にとっては働く日だ。酒は飲まない。遊びもしない。いちばん好きなのは旅だという。

その暮らしを、先生は冗談めかしてこう並べた。休みは、ない。月曜のあとにまた月曜が来るように、一週間はただ働く日が続く。

撮影:和田タチアナ
撮影:和田タチアナ

二幕|十五歳の、雛鷲。

有田の窯元の子に生まれた。父の窯は、職人を三十人ほど抱え、有田焼を数多く作る企業的な窯元だったという。だが戦時中、若い働き手が軍隊に取られ、窯はいったん閉じられていた。父は萬二に跡を継がせようとした。しかし少年の目は、轆轤ではなく空へ向いていた。

十五歳、志願して海軍飛行予科練習生となる。予科練——本科へ進む前に、飛行機に乗るための教育を受ける課程だ。茨城・霞ヶ浦。井上先生はそこを、海軍航空隊の聖地だと言った。同期の記憶を、先生は数字で語る。全国から八千名が志願し、受かったのは七十九名。中国戦線から各地に散り、生き残ったのはそのうち一割ほどだと。

なぜ十五歳で、と問うと、時代のせいだと先生は言った。旧制中学の二年から、学徒動員が始まっていた。女学生も鉛筆をハンマーに持ち替え、軍需工場で弾を作る。男子も工場に駆り出され、勉強はほとんどできない。どうせ動員で学べないなら、軍の学校で学んだほうがいい——そう考えて、海軍のパイロット学校へ志願した。将来は海軍の立派な軍人になる、という目標もあった。

学校では、戦争のことは別にして、ひたすら机に向かった。国語、数学、そして三角関数。飛行機は時速五百キロで飛び、軍艦は動く。自分の高度は三千メートル。そこから何度の角度で突っ込み、爆弾を落とせば当たるか——操縦しながら計算するための三角だった。作文は、無線で誤りなく伝わる簡潔な文を書く訓練。英語も毎日あった。軍国の日本で英語は忌まれたが、未来の飛行士には敵国の言葉が必要とされた。

規律は苛烈だった。海軍精神注入棒と書かれた樫の棒で、間違えれば打たれる。着陸で三つ跳ねれば、教官に「お前、三つ跳んだな」と三つ打たれる。ある日、飛行場の脇を歩いていると、敵機グラマンが低く迫ってきた。伏せた身の横を弾がかすめていく。十六歳だった。

もし戦争が続いていたら、この世にいなかったかもしれない。兵隊同士が戦うのはやむを得ないとしても、民間まで巻き込むのは戦争ではない——先生はそう言った。長崎で学徒動員のさなか原爆で亡くなった人たちのことにも触れ、だから戦争をしてはいけないのだと、静かに繰り返した。

海軍飛行予科練習生——通称、予科練。全国から八千名が志願し、受かったのは七十九名という難関だった。制服は詰襟に七つボタン、胸には鳥の羽の徽章。女学校の前を通れば、女学生が歓声をあげた。少年たちはその制服に憧れた。だが、その先に待っていたのは、還らぬ飛行の訓練でもあった。井上先生はいまも年に一度、先に逝った先輩たちの慰霊祭に通う。

撮影:和田タチアナ

中幕|無給の、十三年。

一九四五年、終戦とともに復員し、父の勧めで柿右衛門の窯に入る。軍隊で鍛えられた日々があったから、無給の修行にも耐えられたと先生は言う。給料は出ない。技を身につけるためだけに、ひたすら働いた。

轆轤は、修得に長くかかる。

ろくろは、取得するには何年かかったんですか。

私は七年、修行して……しても自分の仕事はできないし、給料をいただけないから。

技はまだ自分のものにならず、給料も出ない。もうやめようか——そう思ったときに、奥川忠右衛門と出会う。

その技を、井上先生は神業と呼ぶ。ほかの職人の三倍の収入を得る、有田でも指折りの轆轤師だった。弟子は取らないというその人に、井上先生は粘って頼み込み、休みごとに家へ通って手伝いながら、特殊な技を学んだ。修行と、この師事を合わせて、井上先生は「十三年」と数える。

やがて先生の作るものは引く手あまたになり、注文だけで十分に食べていけるようになった。有田の窯元から「あなたのを作ってください」と言われる。ふつうなら、そこが上がりだ。だが井上先生は、そこにとどまらなかった。

技があるだけでは、職人だ。自分の道を開くには、ただ作るだけでは足りない。もっと深く、釉薬を、陶土を、焼き物の全体を学ばなければ——そう考えて、先生は柿右衛門の窯を出た。

撮影:和田タチアナ

中幕|旅が、形になる。

二十九歳、佐賀県の窯業試験場に、公務員の技官として入る。ノルマはない。百個作れと言われることもない。原料、釉薬、窯の焼き方、デザイン——焼き物のあらゆる工程を、定年まで勤める公務員として腰を据えて研究できる。井上先生はそこで十三年、学んだ。窯で十三年、研究所で十三年。あわせて二十六年をかけて、先生はようやく自分の道を開いたことになる。

なかでも力を注いだのが、陶土だった。天草の石は鉄分が少なく、白い。だが有田の土も天草の土も、鉄分はある。十個作れば八個は鉄の点が出て、完璧なものは二個ほど——それが白磁の歩留まりだった。ドロドロに溶いた陶土を電磁石に通し、鉄分を吸わせて除く。そんな装置や、薬品による処理を重ねて、先生は澄んだ白の出る陶土にたどり着いた。最高の陶土と最高の技があれば、絵付けに頼らず白だけで立てる——白磁への転向は、この研究の先にあった。

では、形を生み出すセンスは、どこから来るのか。井上先生の答えは、旅だった。全国を旅し、その土地の宿を、田舎の屋根の反りを、神社仏閣の違いを見る。それがそのまま形になるわけではない。だが感性に沈んで、あるとき技となって出てくる。瀬戸大橋を渡れば、鳴門の渦がある。その渦を見て、先生は渦文の壺を作った。五穀神社を訪ね、昔の偉人の記念碑の碑文を読む。この土地にはこういう人が生まれたのかと胸に刻む。美術館で古い器を見て「いい形だ」と褒め、外に出てから思い出して写す。その場で写せば、ただの模倣になるからだ。

スケッチは、あまりしないんですか。

スケッチはするけど、したら取りには必要にならない。図面で描いたものと実物は、まるっきり違ってくるんです。

そして、手を動かすほどに形は湧くのだと先生は言う。机の上で図面を引いても、思うようには生まれない。だが轆轤の前に座り、一つ作るうちに、途中でふと面白い張りが出る。ああ、これはいい形だ、と。図面と実物は、まるで違う。径十センチ・高さ十センチと図面に書いて、そのとおり作ると、細く低く見える。そういう見えの狂いまで体で分かったうえで、形は生まれてくる。

撮影:和田タチアナ
撮影:和田タチアナ
撮影:和田タチアナ

中幕|海を、渡る。

四十歳の年、井上先生はアメリカに招かれた。ペンシルベニア州立大学の美術科で、有田の白磁を半年間、教えるためだった。月給は二千ドル。当時のレートで七十二万円ほど、佐賀県の技官として得ていた給料の七倍だった。ただし、条件がひとつ。大学は通訳をつけない。技術だけでなく、英語で教えられる人が要る、という求めだった。

ここで、予科練の日々が生きた。軍国の日本で英語は忌み言葉だったが、飛行士だけは敵国の言葉を仕込まれていた。とはいえ二十数年、使っていない。渡米まで三か月、井上先生はひたすら単語を覚え直した。

通訳もなしで、よく決心されましたね。

「アイ・ラブ・ユー」でいいでしょ、と言われたけど、それでは済まないから。

プロペラ機を乗り継ぎ、ロサンゼルス、シカゴ、ピッツバーグ、そして大学へ。日本人がまだアメリカへ渡ることの珍しかった時代に、四か所を単身、点々とした。半年で貯めた三百万円ほどは、持ち帰れない決まりだった。だから帰りは、その金でヨーロッパを回った。コペンハーゲン、イタリア、イギリス、フランス。海外の暮らしにはもう慣れていた。一人で、ぐるりと回って、東京へ帰ってきた。

渡米は、生涯でおよそ三十回に及んだ。異国は多くを教えた。深い伝統がないぶん、あの国の作り手は発想が自由で、同じ目標でも一人ひとりが違う道を行き、たえず新しさを探している。伝統の国に生まれた幸運を思う一方で、その伝統に沈みきる危うさも見えた。四十二歳、井上先生は安定した公務員の職を捨て、自分の窯を開く。やっと、探していた自分の道を見つけた、と先生は言う。

撮影:和田タチアナ

中幕|七百人の、教え子。

研究所にいた頃から、井上先生はもうひとつの仕事を担っていた。後継者の育成である。戦前・戦中に本物の技を身につけた職人たちは、みな老いていく。その先、有田の技を誰が継ぐのか。井上先生は全国から若い人を募り、育てはじめた。国内におよそ五百人、アメリカの大学に二百人。あわせて七百人の教え子がいる。いまも佐賀の大学で顧問を務め、若い作り手を見ている。

ただし、日本とアメリカでは育て方が違うのだと先生は言う。アメリカの大学で教えるのは、将来プロの陶芸家になる人ではなく、美術の教師になる学生たちだ。いっぽう日本では、伝統工芸の技をほんとうに継いでくれる人を育てる。教えるというより、見て、習う。技はそうやって伝わる。

その井上先生が、いまの工芸に危機感を抱いている。掛物ひとつ取っても、かつては四十人の職人が分業で仕上げる総合芸術だった。だがその職人たちがいない。着物を着る人は減り、染色も漆器も痩せていく。家庭の器は、安い量産品に置き換わった。新しいものへ向かうのはいい。だが、古いものをきちんと守る誰かがいなければ、せっかくの日本の伝統工芸は土台から崩れてしまう——そう先生は憂えた。

若い人の取材は、なかなか記事になりにくいと聞きます。

死の間際になったら、老人に取材しないで、若い人たちを取材してくださいと言うんだけど……履歴があるから、取材に面白さがある。若い人はまだ目標がないでしょう。でも、若い者には若い者の生き方があるから。

新しいものばかりでも、古いものばかりでもいけない。基(もとい)を持たずに表現だけを追ってはいけない——その戒めは、若い自分に贈られたあの四文字に、まっすぐ通じていた。

撮影:和田タチアナ

大詰|名陶無雑。

白磁を作るにあたって、いちばん難しいのは形ですか。

形です。

井上先生は、自分を職人とは呼ばない。職人は、与えられたものを忠実に、完璧に作る技を持つ人。陶芸家は、その技のうえに、形を生み出すセンスを重ねなければならない。作る技があっても、創造するセンスがなければだめ。センスがあっても、作る技がなければだめ。その両方が心と相まって初めて、その人の作品になる——それが井上先生の信じる線だった。

白磁の、とりわけ白は、形の完全を求める。有田は本来、鉄分の点を絵付けで隠すようにして、染付や色絵の伝統を築いてきた土地だ。だから白で表すのは難しかった。顔に難があれば化粧で隠すように、焼き物も加飾で美を作る。だが白磁にはごまかしがきかない。最高の形を作れたなら、文様は要らない——それが白磁の原点だと先生は言う。のちに中国・景徳鎮の古い窯跡で見た青と白の対比に着想を得て、白磁に青磁の釉で文様を表す独自の技も生んだが、芯にあるのはいつも、形だった。

その青は、絵具ではなく釉薬でつくる。素地に文様を彫り、そこへ青磁の釉を差して、白と青の対比を生む。日本にはなかった技だった。焼きは、月に一度。ガス窯で、千三百度。素焼きをして釉をかけ、本焼きで一度。二度の火をくぐって、ようやく一つの白磁になる。十のうち八は鉄の点で損なわれる——その歩留まりと闘い続けた末の、澄んだ白だった。

名陶無雑——この言葉は、どなたから贈られたんですか。

その芯に名を与えたのが、「名陶無雑」の四文字だった。五十年ほど前、初めて東京で個展を開くとき、井上先生は当時の高名な陶芸評論家に推薦文を頼んだ。相手は言った。あなたにそんなものは要らない。「名陶無雑」——一途にこれに生きなさい。それがあなたの仕事だ、と。すぐれた陶には雑念がない。あるのは技術と感覚だけ。以来、その言葉は先生の理念になった。

お孫さんの祐希さんが、跡を継がれるんですか。

私の物真似は、私が死んだらいくらやってもいいけど、私の生存中は……あくまでも親の物真似だから。自分でアイデアをやれと、自分のいいようにやってます。

四代の家族展を、先生は夢見ていた。だが四代目となるはずだった長男が、前の年、六十一歳で世を去った。がっかりしている、と先生は言葉少なにこぼす。跡は、孫の祐希が継ぐことになる。祖父のもとで、有田の伝統的な技を学んでいる。技はしっかり身につけよ、アイデアは好きにやれ——そう言って、いまは自由にさせている。私の物真似は、私が死んでからいくらやってもいい。生きているうちは、それは親の物真似にすぎないのだから。孫は三十一歳。あと十年、孫が育つまで頑張るのだと、九十二歳の先生は笑った。

白い、贈りもの撮影:和田タチアナ
インタビュアー:和田タチアナと快く取材に応じて下さった井上萬二先生
The Question あなたにとって、
舞台とは。

最高の形を作れば、 文様は要らない。それが白磁の原点。

Profile

井上萬二(いのうえ・まんじ)。1929年、佐賀県有田町生まれ。企業的な有田焼の窯元に育つが、15歳で海軍飛行予科練習生に志願、茨城・霞ヶ浦などで訓練を受ける。終戦後に復員し、父の勧めで酒井田柿右衛門の窯に入る。修行のなかで奥川忠右衛門に師事し、白磁と轆轤の技を学ぶ。のち佐賀県の窯業試験場の技官として、原料・釉薬・焼成を13年にわたり研究。42歳で独立し、加飾に頼らず形のみで立つ白磁を追い求めた。天草陶石を用いた澄んだ白と、青磁釉による文様を確立。1995年、重要無形文化財「白磁」保持者(人間国宝)に認定。1997年、紫綬褒章。国内外に多くの教え子を持ち、1977年から銀座・和光で個展を続けた。本稿は取材当時(92歳ごろ)の姿を記す。井上萬二は2025年7月14日、96歳で逝去された。

取材後記

九十二歳の背筋と、休みを二度数える冗談を、私はしばらく忘れられないでいる。生き延びた雛鷲が、白い土の前に座り続けた。旅の話をするときの声がいちばん若かった。渦を見て壺にし、碑文を読んで胸に刻む——形はそうやって、この人の中に貯えられてきたのだと思う。帰りぎわ、白いチョコレートの小箱を手渡された。開けると、鶴、亀、松、竹、梅。白磁の小さな縁起の像が、署名とともに並んでいた。

2021年3月 佐賀県西松浦郡有田町 井上萬二窯にて

2021年3月 佐賀県西松浦郡有田町 井上萬二窯にて 井上萬二先生 撮影:和田タチアナ